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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 春の空 4

春の空3の続き・・・。

忘れるように書き遊んでいた…。

孫の薬

 年寄りの薬に孫がいるかいないかという問題がある。孫がいればどんな薬も効くのだ。そう断言出来る根拠は薬好きで効くか効かないかわからない薬を沢山のんでいた私が孫が出来てからは薬の効用は顕著になっていると言うことだ。飲み続けなくても良くなったのは心の平安を見つけられたと言うことに他ならない。何より孫達の笑顔は万能薬なのだ。統計を取ってみると孫のいる年寄りとそうでない年寄りの長寿率は明らかになるのではないかと思う。明日に何もすることのない年寄りの多い中、明日も孫の笑顔が見られると言う幸せを持っている年寄りは生きているといえるのだ。何もすることのない事は本当に寂しいものである。
「孫より我が子が可愛いに決まっている」と嘯いていたのだが孫が生まれてその認識を捨てた。比べるものではないと気づいたのだ。我が子のそれは嗜好品であり孫のそれは必需品だと言うことだ。なくては困るものになっていると言うことなのである。「孫」という歌謡曲が十年くらい前にはやったが俗な表現をすれば歌詞の通りになるが、もっと崇高なもので精神的な高揚をもたらせてくれよりどころになると言うことなのだ。可愛いと言うより安定剤なのだ。だから孫のいる年寄りは長生きをすると言うことだ。つまりストレスを除去してくれる存在なのだ。       
 孫は長寿の必需品と言うことになる。孫かわいがりが昂じて自分のような人生を歩ませることにならないようにしなくてはならない。
自分の人生を素晴らしいといえる人はどうか、だが孫にとってそれが十全の幸せな人生であるとは限らないのだ。孫の個性を見抜いてそれを伸ばしてやるのが長く生きた年寄りの慧眼なのだ。孫を薬とした者は孫の個性を見抜いた接し方が求められるのだ。唯長く生きて孫と接することだけでは許されないと言うことなのだ。
「じいじ。ばあば」
 と呼ぶ声が聞こえてくると、精神は落ち着き血圧も安定する。
 毎晩孫たちをふろに入れるが丁寧に手にシャボンを付けてすべすべした肌を洗うことにしている。これはスキンシップなのだ。大きくなる過程でその距離を広げて行くのが孫達の自立への路なのだと言うことをじいじとばあばは知っているのだ。世の母親と父親はスキンシップの距離を生まれたときと同じ距離で接していないか。今色々と子供のことで親がしゃしゃり出ているが年寄りが居ればその距離を教えているのだろうが。
 孫の笑顔は何よりの良薬である。
 慎むべきは、じいじとばあばはすべての孫達の要求を叶えるという無責任なところもある。孫達のうれしそうにする表情が見たいから。
 薬になってくれている分じいじとばあばは良いことと悪いことの判断をしなくてはならない。そうしなくては後に薬の副作用が現れることを肝に銘ずるべきである。
「孫がきてくれるとうれしいが、帰るとホッとする」そんな言葉を聞いたことがある。だが、子供は天使であり孫は薬師如来だと思うことにしているが。
 


     同窓会の案内状 

 同窓会の案内状が届いた。還暦前は正月の三が日が多かったのだがなぜか九月が多くなった。みんなが定年退職していつでもかまわないというのが理由なのであろう。時間と金があるのかゴルフのコンペを誘う文字も見える。このところ行ったことがないので良くわからないがあいも変わらず恩師が前に座り教え子を見下ろしているのだろう。そんな図式が目に浮かぶ。教師とはあらゆる教育環境の中で最高でなくてはならないのだと感じている。教師は同窓会に恩師として呼ばれることを考えて生徒に接して来たのだといえるのだろうか。同窓会に呼ばれた時の事を考えて生徒に生き方を教えておくといいのにと思う。金持ちの子や勉強の出来る子を依怙贔屓しといて良くも出てきてにこにこ笑っておられるものだと思う。私の時代には社会的に皆貧しく盆暮れの付け届けをする親を持った子は依怙贔屓されていた。発起人や幹事になっているのは教師が依怙贔屓をした連中ではないのだ。そこが彼らの人を見る目のなさである。小学校で勉強出来た子は中学校で直ぐに抜かれる、学習をしていい成績を残していたが勉強もしないで後に付いていた子らにである。頭がいいか悪いかは小学校では分からなくて中学になって初めて分かり差が付くのだ。その差は一生続くことになる。その差を縮めるのは個性的な生き方しかないのだ。それは人間は金や勉強で将来偉くなり立派になるという事はないからだ。得てして学校の勉強など当てにならず何十年も経てばなんの役にも立たなくなり実学を学んで生きた友らが立派になっている場合が多い。金は経済の仕組みでなくなるものだと言うことが恩師と呼ばれる者にはまるで分かっていないのだ。更に書くがいい先生とは子供たちの最高の教育環境であるかどうかを常に自らに問うている人たちである。
 今回の発起人に名を連ねている人を見てもその目的は分かる。小銭を貯めてこんなに立派になりましたとほめて貰いたいのだろう。何か自慢話の一つもあってみんなに知らせたいのかも知れない。その程度で会を開くのだから恩師なんて刺身のつまなのだと言うことは分かる。出席する人たちも恩師に会いたくて出るのではなく昔の悪ガキに戻りたいという願望からなのだ。ならば恩師と呼ばれる人を招く必要が何処にあろうか。教師にお世話になり自分の寸法を錯覚させられた教え子は人生の荒波に打ち勝つことが出来ず努力という試練をせず怠惰な生き方をしてみんなの前に出るのが肩身が狭い人たちなのだ。それは教え子を過大評価した恩師に罪はないのかと言いた。言ってみればどちらもかわいそうなのだ。彼らは並の人間になっている姿を見せたくなくて殆どが出て来ないのだ。先生の期待に添うように勉強をし誠実に努力をしなかった依怙贔屓をされた彼らにも罪は有ることは言うまでもないが。罪つくりなのは恩師達であると言いたい。何も依怙贔屓してもらえなかったから言っているのではない。ある意味では学校で無視され社会に出て相手にされずに個性を生かし自分の道を開いていく事が出来た事で恩師と言うことがいえるのかも知れないが。六十年も過ぎれば恩師の殆どは鬼籍に入っているだろう。厚かましく生きている人がいるというのか。


 幸せな時間は耐えた時間がつくったもの。
 
 幸せな時間を持っている人たちのすべてが耐えた時間を持ったのか、そこに大きな疑問が生まれる。生まれてすぐに幸せな時間の中にいてそれを享受している人たちもいるかと思えば一生耐えた時間を持たなくてはならない人たちもいる。それを定めという言葉で簡単に言っていいのだろうか・・・。釈迦はそれはカルマであるというが。つまり前世の行いをよりどころにして現世の定めが決まるというのだ。釈迦も人それぞれの生き方の違い、つまり境涯のあり方が様々なことに悩み輪廻転生のならいを説きながら無意識層のあらや識にたどりつきその所為だという結論を述べたのであろうと思う。人に生まれるという事は善行を施して生きた人達なのである。その人のあらや識のカルマもひどくはなかったはずである。
 芥川龍之介の作品の中に悪人が蜘蛛を殺さなかったから仏は地獄からはい上がれる糸を垂れ下がらせて救いの路を開いたと言うものがあるがそれこそカルマによる裁断なのだが、後から糸にぶら下がってくる者を蹴落とす仕草で糸が切れ地獄へまい戻ると言うものであった。慈悲を書いているようであるが来世へのカルマの厳しさを説いている物語として皆読み砕いていないような気がする。慈悲では断じてないのだと思う。
 つまり、幸せな時間は耐えた時間が作ったもの。と言うきれい事はキリスト教史観の楽観的な言葉なのであろうと思う。
 このように一つの言葉の理解においても宗教史観の教義によって異なる判断をとらなくてはならなくなるのだ。
 つまり言葉の力が当事者の心に入り込み作用するのだ。信じる信じないは各人の都合なのである。その様に信じる心の動き、楽になりたいという本能と杞憂をいち早くなくしたいという事があらゆる宗教の発展に寄与したと言うべきなのかも知れない。罪人でも往生できますよと親鸞は言ったが平安末期から鎌倉のはじめ千路に乱れていた世の中では多少の罪を背負って生きていた人が多かったことでそのようなカルマと関係ない優しい言葉を親鸞は語り救おうとしたのではあるまいか。だが、仏教ではあらや識のカルマは絶対的なものであったから南無阿弥陀仏と唱え参らすことでそのすべての罪業も消滅をするという教えを流布して助けたのだ。親鸞は自ら仏教の戒律を犯している。女犯の罪を犯した上人であったからだ。題目をあげる事で許されると言うことは自らもそのことにより救われたいという願いであったのではなかろうか。
幸せな時間は耐えた時間がつくったもの。
果たしてそんな慰めがまかり通る世の中なのだろうか・・・。信じる者は救われる、と言う事なのだろうか・・・。

          
 何年かぶりに同窓会の案内が届いた。

学校と言うところにあまりいい思い出がないので喜んで行こうという気にはならない。この様な思いは同窓生の中にも沢山持っていると思う。学校を不快に思う人たちである。その人達はだからといって社会をはみ出して生きている人たちではない。まじめに生きた人たちに多いのだ。幼い心に刻み込まれた記憶はたやすく忘れられるものではない。
 昭和二十四年と言えば終戦して四年、日本が復興に努力していた時期である。みんな貧しくぼろを纏い食べ物に不自由をし暮らしていた時代である。セピア色の小学校の入学式の写真があるがみんなろくな物を着てないし履き物も草履や下駄である。先生は復員してきた人が多かった。代用教員もかなりいた。その人らを恩師に持っているのだ。先生というのが酷かった。授業中戦争の話ばかりして教科を教えてもらえなかった。勉強の出来る子と金持ちの子を依怙贔屓した。そんな中では勉強なんかできるはずもなかった。六年間遊んだ付けは中学校で現れた。勉強のできる子の後にいて遊んでいた子がこれでは大変と勉強を始めた。勉強のできた子を軽々と抜き去った。勉強のできた子はできると思っていただけである。みんなが高校受験の勉強にかかったら小学校で勉強のできた子は取り残されてしまった。唯依怙贔屓の恩恵で出来る子と勘違いをさせられていただけで実力はなかったのである。惨めだったのは依怙贔屓をして貰っていた子達だった。
 そんな教育をした先生を恩師と仰ぎ同窓会をする事になんの意義があるというのかと毎回思うのだ。発起人や幹事をしている友は依怙贔屓をして貰った子ではないのだ。寧ろ無視されていた子達である。彼らだって真実恩師などと思っているわけではなく多少社会で幅をきかし小銭を貯め込んで自慢の一つもしてみたいだけなのだ。そのような面々が名を連ねていた。
 教育環境の最高は教師自身でなくてはならないと言うのが持論であったからそうでなかった先生を恩師とは呼べないし顔を見るのも億劫であった。だから欠席と通知した。社会で幅をきかしている友は無視されていた故に今成功しているとするならば無視した先生は恩師なのであると言うことが出来るかも知れない。彼らは親の後を次ぐことも出来なかったから開き直り苦労をして実学を物にして個性を生かして地位を築いた。かわいそうなのは依怙贔屓をして貰った友で大きな錯覚をさせられ勉強も半端にしか出来ず努力もしなかったから社会で日の目を見ることは出来なかったのだ。その同窓は恩師を憎んでか発起人達に合うのが恥ずかしいのか出席をすることはなかった。
 同窓会の席で好々爺の様に笑みを浮かべている恩師達は今の現状を見てどのような心境であろうかと推察する。
「何々君はどうしているのかね」と勉強の出来た金持ちの子のことを尋ねた。あの子達ならかわいがったので立派に成長し社会的な地位を築いていると思って尋ねたのだが、
「どのような生活をしているのか連絡がありません」と無碍に返されて沈黙をした。小学校で幾ら勉強が出来ても甘やかされて育った子は上の学校で唯の子になると言う事は珍しいことではなかった。ここで自らの慧眼の曇りを気付けばいいのだがまだその頃の事が頭にあって納得はしないのが先生という職種なのである。金は経済の仕組みでなくなると言うことを知らず勉強が出来た子も誠実に努力をしなかったら社会から取り残されると言うことの認識は殆ど持ち合わせていない先生という境涯の彼らはそれを認めようとしないのだ。
 見る目がなかったと認めたくないのだ。罪作りを現実の歪みとして否定するのだ。今自分の前に立ち立派に振る舞っている彼らに屈服はしないのだ。間違っていても誤りを認めない性格なのだ。人間の悲しいエゴである。
 そんな恩師に同窓会でどのように対峙するというのか。酒が出ると今までの不満が爆発する。自慢話の応酬である。恩師達は痴呆症の患者の様ににこにこと微笑んでいる。てんでんバラバラの会の進行が続くのである。こんな時には時間の経つのが遅くなり何時終わるのかと終会の挨拶を待つのだ。こんな会なら出るのではなかったと思いながら帰路につくのだ。アルコールで麻痺している頭で幼かった頃の思いを振り返りほくそ笑みつつ苦い思い出を作ったと後悔しながら・・・。
 
 歳のせいか体力が衰えている

最近視力が衰え始めている。パソコンの字は読めるのだが薬の効能やいろいろの説明書の字がぼやけて読み取れない。めがねがなくては駄目な歳になったか、元々近眼であったが五十歳くらいでめがねをかけなくても免許更新が出来てそれからめがねをかけることがなくなっていた。小さな活字でも裸眼で読めたのだ。が今ではとてもめがねがなかったら読めない。歳であると言うことが眼に影響し衰えたのだ。耳は気圧の関係で響くようになっている。不安定な気圧の日には耳が遠くなるのだ。これは歳の関係でなく鬱の所為かも知れない。だが、おかげさまで歯は入れ歯ではない。歯だけは終わりまで自前でと思っているが・・・。早めはやめに医者に通って見て貰っている。
 通っている歯医者さんは近くで何代目かの太っている先生である。
歯医者にしても医者にしても相性と言う関係で成り立っている。同じ薬を貰っても相性のいい医師から貰うと治りやすいと言う・・・。相性とは信頼に通じるのかも知れない。内科は何処、目医者は何処、歯医者は何処、耳鼻科は何処とこの歳になると常にどこか悪いので決めている。緊急でない限りよそへは行かない。昨年かかりつけの目医者の先生が歳で閉院した。行って直ぐに診て貰えるというあまりはやっていない医院だったが今まで眼がおかしいと診察をして貰ったが適切な治療で直ぐに治っていた。人はその医院を藪だ株だと言ったが私にとっては名医だった。早くて安い、そして話が面白く、
「まだまだ大丈夫。眼底の血管は若いよ、両親に感謝しなくては」
と言葉を薬と一緒にくれた。今様の最新設備はなく古びた診察室だがなぜか安心感が生まれるものだった。耳鼻科も四十年診察室は変わらない。歳で何時閉医院するか分からない。
「手が震えたらやめるよ。今やめたらうちで働いてくれる人たちを路頭に迷わすからやるだけはやるよ」と言いながら闊達に胸を張る。
 医者さんとの交流が命を長らえてくれていると思う。有り難いと言葉を落とす。
 我が家は私のホームドクターにみんなかかっている。家族ぐるみの関係になっているのだ。
 歳を取ると言うことは医者さんと沢山知り合いになると言うことのだ。
 鬱に罹ったときには鬱と分からずに沢山の医院に出かけそれぞれの診察をいただき様々な薬を飲んだが効かなかった。心療内科にたどり着き薬をいただいて飲むと嘘のように効いた。薬は何でもいいのではなく病状にあった薬があることを知った。それでも二十年間は鬱と仲良くしたのだ。小説家で医師の南木佳士さんは小説を書くことで治したという。小説家の宮本輝さんは一人でいることが不安で何処に行くのも奥さんと一緒の生活をされていたのだけれどどうされているのだろう。その症状は鬱に間違いがない。最近は新刊も出ているから良くなっているのか。私の場合は台本を書き演出をして動き回り心療内科の薬を飲んだので良くなったのだが・・・。車の運転は出来なかったので隣にスタジオを建て練習を見るという大金を使ったけれども鬱の症状のつらさに競べたら安かったと言えるだろう。最近は鬱の症状を見分ける医師達が多くいて直ぐ治療をしくれる程有名になっているので治りやすいが昔は普通の医者達では見抜くことが出来なかった。羽田で飛行機が滑走路をオーバーランした機長が私と同じ薬を飲んでいたのが分かり鬱で飛行機を操縦していた事実を知り、またそのことで鬱という病名が広く世間に認知されることになった。
 遊び人でも鬱になるのだから誠実に仕事をしている人は尚罹りやすいと言う事になる。今鬱の患者が沢山いるが、横着病と言われたら診療内科を訪れることである。
 鬱の苦しさは鬱になった者しか分からない。
 今、どこかが悪いと言っても良くきく薬があるし・・・。眼が衰えた、耳が響く、喘息が、血圧がと言っても鬱の何とも言えない気分に競べたら辛いが耐えられるように思う。
 今日、一ヶ月に一度の診察日、血圧と胃の薬と安定剤をもらいに行くのです。鬱の安定剤は今でも飲んでいます。
   


食欲の秋

 読書の秋とか芸術の秋とか人は言うけれどやはり食欲の秋。
「夏痩せもせずそんなに太っていても食欲の秋ですか」と人は言うけれどやはり食欲の秋なのです。何でも美味しく食べられると言うことは健康の証と思っているからなのです。
 次男が結婚して家人と二人だけの食卓、料理を作るのも侘びしい二人前の食材。だから余計に色々と贅沢をすることなく工夫をして作るのです。この夏の暑さには体がついて行けずにスーパーで弁当を買って来て夕餉にしたり、洒落たレストランに行き海老やハンバーグやカツを頬張ったのです。年寄りが食らうといつてもたかが知れていて二千円もあればおつりが来るようなものを食べたのだ。たまにはいいものだったが、それはだんだんと飽きて満足できなくなるから人間の性根というものは度し難い。外食をするために外に出るのだが色々と迷って決まらず家に帰りそうめんを食らうと言うこともしばしばであった。
 買い物好きだから食べたいというものは冷蔵庫や冷凍庫の空きを考えず買うから何時も一杯で家人に文句を言われるのだ。
「冷凍して秋に食べるために買いだめをしている。このような気候変動の世の中では何時なんどき食材が不足してもおかしくはないからして備蓄をしているのだ」と、終戦後の食料不足を経験しいているからついついそんな言葉が突いて出る。冷蔵庫に、冷凍庫に食材が一杯詰まっていると言うことは我々の世代では至福なのである。
 そういえば夏にはあまり食べなかった飼い猫の九太郎が最近よく食べるようになった。こやつも秋の気配を腹に感じて食欲が増したらしい。こやつは今まで何遍も尿路結石を繰り返しその都度犬猫病院の玄関をくぐり福沢諭吉を何枚も使うという困った病気持ちなのである。だから予防食をあてがっているのだがそれがまた高いのである。二キロ入りが三千五百円、私の一ヶ月の治療費が三千四百円なのであるから同等なのである。安い猫食を食べさせるとたちまち小便を詰まられてのたうつからやれない。犬猫医院へ連れて行けば血液検査やカテーテルで膀胱の血尿を抜くために福沢さんと別れなくてはならないから三千五百円を安いと思うことにした。そんな九太郎が秋の気配を感じて猛然と食べ始めたのだ。食欲の秋を実践しているのは最初は彼であった。
「糖尿が喜ぶ体をしていますね」と太っている体を見てかかりつけの大先生は常に口にするがその気配は今のところないのだ。院長からは検査をしますかと言う言葉を聞いたことがない。密かに毎日ドリップで入れた珈琲を十杯は飲んでいるのでそのおかげなのかも知れないと思っている。
 何でも美味しくいただける秋、秋だけでなく年中なのである。
 鬱を患っている人は大概太っているものなのです。心療内科の待合いには太っている人たちで一杯でした。年中物思う秋だけではなくあてがわれる抗うつ剤を飲むと副作用で太るのです。鬱はうつるのかと、夫婦が鬱の患者をたびたび見かけましたから。うつるのでなく仲が良すぎるのでしょう。うつることは決してないのです。
 鬱のなれの果ては今秋を感じてよりものを美味しく食べています。十三キロのダイエットをキャベツでしましたがすっかりともに戻りました。今太っているのはまだ精神安定剤を飲んでいる所為にして太っても気にせずに美味しいものを食べようと思っています。時に読書をしてみたりして・・・。暑かった夏に決別して秋を楽しみたいと・・・。


車の話

四年前に大きな車から軽四に乗り換えた。昭和三十年代の後半の車と競べたら高級車並みだ。その頃の車はウインカーは直ぐ壊れて曲がるのに窓から手を出してウインカーの代わりをした。ワイパーも付いているが動かなくなってぞうきんでガラスを拭かなくてはならず、坂道ではのろのろ運転をし、ブレキーはダブルに踏んでもあまり効かなかったし、チェンジはなかなか入らなかったりした車であった。中には雨漏りのするものさえあったのだ。嵯峨の渡月橋の上をスターがダッチを得意げに走らせていた時代である。アメ車も良く故障をしていた。
 家人をのすだけなら軽四で十分と買い換えたのだ。なかなか買い得でこれなら遠出も出来そうで瀬戸大橋を渡って墓参りをした。よく走るしスピードが出ても重心を道路にへばりつかせて安定する仕組みになっていた。これなら何もプリウスを買う必要もないと思った。車がなぜ必要かと言えば持病の鼻と喉の治療に毎日行くためであった。歩いても二十分という距離なのだが鬱がまだのこっていて不安だった。
「車でなくても電動補助自転車にしたら」と家人が言うがそれには二人乗りは出来ない。家人とたまにチャイルドシートを付けて孫をのせ病院へ行ったり買いものに行ったり出来ればいいと言うことなのだ。
 退職して大きな車を買う人が多いがそんな見栄は当方は持ち合わせていないから軽四でへっちらである。年寄りは運転が下手になっているので万一の時を考えれば大きな車に限ると心配してくれるがよけいな世話である。そのときは立派に往生して見せようというものである。たかが数キロの耳鼻科へ行くのにまだまだ腕は衰えてはいないと啖呵を切る。何も高速を百二十キロで走るのではないのだから。軽四に乗り始めて性能のすばらしさに感心しいる。それは昔の車と比較しているのではない。四年間一度もトラブルがないのだ。
小さくて安いしよく走り燃費もいいとなれば文句はない。小さいと言っても普通運転免許を取ったのはこれくらい大きさの昔のダットサンであったのだ。自動車学校もなかった時代一発で取ったのだ。
 最初に買ったのがコロナ、次もコロナのハードトップ、家人を乗せてよく走ったものだ。ガソリンは食ったがよく走った。次に買ったセリカは良く追突されて相性は良くなかったので直ぐにマーク2に買い換えた。これは横腹に追突をくらい半年病院通いをした。鬱の原因がここにあったといえる。数年後鬱の症状が現れだした。最後はクラウンというコマーシャルが流れていた時期であった。鬱の症状では車に乗るのが難しいがスカイライン、トップエース、マスターエース、マーク2、コロナ、サニー、トリノ、フロンティ、セルボ、ミニカー、スターレット、カローラ、ロゴ、ローレルなど常に二、三台持っていた。駐車場に持ってきて貰って欲しいと言うことで貰ったものが多かったのだ。最後はクラウンとは行かなかった。クラウンは好きでなかった。人相の悪いおっさんが乗っているとやくざに間違われるおそれがあった。一人では不安で乗れないから家人を助手席に乗せて走った。今でも時折うつの気配を感じて家人に声をかける。鬱が良く為りつつあっても大きな車に乗ることはしなかった。一人で乗るのだからそれ相当でいいと思っていたからだ。大きな車に乗りたいと思わなかったし興味がなかったといえる。走って目的地に着けばいいという考えだった。走れば何でも良かったのだ。再発売をしたセルボを買ったのです。最初のセルボは好きだった。マーク2を乗らずにセルボで親子4人がのってよく走ったものだ。坂道などぐんぐんとスピードを上げて登ってくれた。それ時のことが頭にあり買ったのだった。
 車社会もう後どれほど持つか・・・。車は人類が発明した最高のものである。が、あってもなくてもいい時代が来ようとしているのは確かであろう。だが田舎都市にはやはり必要なものだ。電車がないバスはないあるのは自転車くらい。都会の車離れが顕著だと言うがそれは当然だと思う。乗り物は幾らでもあるし車を持っていると九種類の税金を払わなくては乗れないのだからそれが最良だろう。地方の人はそれに任意保険を払って十種類の税金と保険の支出で乗らなくてはならないのだ。車に対してこんなに税金を払っているのは日本くらいだ。贅沢で金食いだ。電車の環状化とか定期バスの増便、自転車道路の整備、をおろそかにしているのは国民に車を使用させて税金をふんだくるためなのかと邪推したくなる。大臣どもは専用車に乗ってふんぞり返ってほくそ笑んでいるのだ。年給一千万円の運転手の運転する車に乗って国会議事堂へ登院しているのだから国民の事などわかりゃしないのだ。
 我が家をリフォームをするときにクラウンを一台ぶつけた。車をぶつけて使えなくなったと思えばリフォームの金は安かった。大きな買いものをするときには車をぶつけた気になって命があるだけ丸儲けと思うことにしている。孫達が大きくなっているので増築をしなくてはならないが今度はどんな車をつぶけてつぶそうかと思案である。
 今は運転しているが後何年車を転ばすことが出来るだろうか。今その予兆が出てきている。駐車がまっすぐに出来ないと言うことなのです。そろそろ運転免許の返上を考えなくてはならないのか。
 四十年前、一日一万円のハイヤーに乗って東京を走り回っていたが地図がさっぱり分からなかった。歩いてみると直ぐ地理は理解できた。
 人間には足がある。これからは歩くに限るのか・・・。年寄りの冷や水だが・・・。
  
春の空5へ続く…。


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